人生は、中断したっていい

本が読めない人でも大丈夫な読書案内

世界の奥でつながっている物語

 

「しかしホシノさん、ナカタはここのところよく夢に見るのです。夢の中ではナカタは字が読めます。何かの加減で字が読めるようになったのであります。ナカタはもうそれほど頭が悪くありません。ナカタは嬉しくて、図書館に参りまして、本をいっぱい読んでいます。...

世の中の人を二種類に分けるとしたら、この世界が完全な真っ暗闇であることを見たことがある人と、見たことがない人のどちらかになるだろう。皆、赤ん坊の頃にはその完璧な暗闇の存在が近くにあるのだけれど、それに触れるほどに距離が縮まる頃には、眠りに落ちてしまっている。
真っ暗な時間は、刺すような静寂で、止まっているわけではないのに、あなたをどこにも運ばない。そもそも、何が運んでいたのだろう?

世界があなたを運んでいた。学校へ、会社へ、目標へ。

時間があなたを運んでいた。皆が幻想で思い描いている未来へ。

あなたが時間を運んでいた。真っ暗ではない、色がついた、輪郭のある世界へ。

 

おそらく人は、人生のどこかで進路を見失ったくらいでは、ただの暗闇でしかない生身の世界に落ちてしまったりはしないはずだ。どこに進めば分からなくなってしまったのなら、少し休みつつ考える時間が必要かもしれない。

現実にはこの社会は、人生に半年でも空白があれば、許してもらえなかったり、相手にしてもらえないことが多いから、迷ったり休んだりしてはいけないという強迫観念に包まれている。それでも、人生はときに進めなくなることがあって、そういう場合は暫し佇むしかない。

突然前にも後にも進めなくなったとき、私が「もう終わりだ」と思っていたかというと、表層的にはそうした混乱はあったかもしれないけれど、本心ではそうではなかった。なにしろ世界は広いのだ。歩く道も選択肢も星の数ほどあるはずだ。それにもかかわらず、美しいほどに真っ黒な空間はいつも目の前に現れるようになった。

 

私には、自分の将来のシナリオにこれといって想定がなかった。「大学には行かないといけない」という貧弱な意識だけがあり、ただそれは渋々思い描いていたというよりも、むしろ「大学にさえいけばなんでもできる」と思っていたし、楽しみな世界だった。

逆に、いい会社に入りたいとか、公務員になって安定した生活を築くいった、ごく普通のイメージを想定していた方がよかったのだと思う。私の未来像は完全にノープラン、フリーハンドで、ただ大学に行くことは生存権と自由の獲得を意味していた。

私たちの、生存権。私たちの自由。
それは初めから、生まれたときからあるはずのものだった。

自分は何人で、(どういう民族で、どういう宗教で)、社会の中のどのあたりの位置にいて、どういうアングルで社会を眺める生き方をしたくて、どういう関わり合い方をする大人になるのか。周りの17歳には、その胸の内には、考えがしっかりとあったのかもしれない。あるいは自明のなにかだったのかもしれない。

「君はこれから世界でいちばんタフな少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そのためには、ほんとうにタフであるということがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。わかった?」

高校に入ってからの私は、人間的成長は殆ど遂げなかった。やってみたことといえば、髪にパーマをかけてみるとか、やたら細身のジーンズに挑戦しようとしたといった類の、上部だけの、しょうもないことだった。

それでも、自分の内側には、そうした表層とは不釣り合いに抽象的でユニークな精神的指針のようなものが中学生の頃からあり、それはより純度を高めていた。

「私は○○王国のどこの村の者です」、「どこの時代の者です」そうした何らかの文脈を想起させるような、前提事項としての説明を一切廃した存在になること。
地面に足を付けてもいけないし、どの面の壁にも寄りかかってはいけない。花の蜜を吸うハチドリのように、ホバリングをしてそこに留まらなければならない。文脈も前提もない以上、生きる上での制約もなく、また限界もあってはならない。言い訳は決して許されない。

果たして、<どんな文脈にも依存しない自己>を得ることを自分に課した私は、「大学に入れればそこから宇宙が始まる」という意味不明な説明の手前で、空中分解し、破裂した。

今日の一冊:海辺のカフカ
村上春樹
新潮社、2002年9月

真っ黒な暗闇はいつも、完全にこちらと視線を合わせてきた。別におそろしいものではなく、向こうもこちらを脅すことはなかったけれど、私にはそのひんやりとした世界の底に足がついてしまっていることが分かっていた。

なんの音もしない。私のための特注の、特別な旋律がそれまでは奏でられていたはずだと思うけれど、そのメロディも存在自体も思い出せなくなっていた。記憶は海馬にあるのだというけれど、小さな頃の思い出も、高校どころか小学校中学校で習った内容も、別の宇宙に誰かが捨ててしまったかの如く、完全に頭の中から消えていた。

私の上空にあったはずの旋律がなくなってしまったことを誰も気づきようがないし、どうしたらそれを取り戻すことができるのかを聞いて答えられる人もいない。誰も、いつからどのようにして自分が自分であるかなど、覚えていないのだから。

名前も説明もないけれど絶対的にそこに在る生身の世界と、どろんとした自分だけが取り残されたとき、そこに入り口や出口があるのか、始まりと終わりがあるのか、知る由はなかった。
世界の奥と私の間に実は関係性があること、道があること、それを辿っていくとどこかで地上に繋がること。それを教えてくれていたのが、この物語だった。

(今日はここまで)