人生は、中断したっていい

本が読めない人でも大丈夫な読書案内

破茶滅茶に生きるために、あなたは傷ついてはいけない

外の気温もまだまだこれから暑くなろうとする季節。のんびりしている田舎の高校生が漸く受験勉強の熱を上げていこうとしている頃、自分の時計だけ短針も長針も狂い始め、完全に止まってしまうのも時間の問題だった。私はあの年、ずっとひんやりとした空気に包まれていて、一人だけ暑さを感じずに過ごしていた。そして時間は進んでいる気配がないのに、まるで夏がなかったみたいに、季節だけが秋にワープしていた(実際には夏に一山あったのだが、それはこれを書きながら思い出すまで完全に忘れていた)。

まったく勉強ができなくなって、<日本の大学を受験する>という道を自動的に手放した途端、どこか解放されたような感覚もあった。意外にも自分のなかでは、「ちょっと一息つこう」くらいの気持ちが僅かにあった。もし可能なのであれば、いっそのこと自分の手で何かを作り上げる世界もいいかもしれない。そうした【自由】が、自分の胸の内の、かろうじて柔らかく、まだ黒ずんでもいないごくごく小さな領域では、まだ息をしていたのだと思う。高三になって突如哲学に興味が湧いていたのだが、本を手に取ってみたところでロクに読めないので、お決まりの逃げ場だった市立図書館では、『装苑』などのファッション雑誌をめくって暫し魅入っていた。テレビではお菓子作りやら内装やら、いろんな世界の職人を特集した番組が流れることがあり、いっとき没入するように画面を眺めた。

一方で、<なにをするか(学ぶか)>はさておき「外国に行ってみたい」という考えもあって、実際に留学に関する資料を取り寄せたりもした。「ちゃんと勉強する」感じのコースを想像するとまた頭が真っ白になってしまうので、体や心をたくさん使いそうな専攻を提供しているカレッジの案内などを見ると、心がほぐれて興味も湧いた。

でもそうやって、思いつくかぎり見渡してみた選択肢の中で、結果的に形になったものは一つもなかった。実際のところは、情報の限られた田舎にいる世の中をまったく知らない十代が、ただふわふわと断片を眺めていただけで、選択肢にすらなっていなかったのだと思う。これは極めて残念なことだが、「哲学に興味があるなら私立でもいいから文学部を受けてみたら?」と言ってくれる大人すら、田舎の高校にはいなかった。

情報がなかったのか。助言やサポートがなかったのか。自分のエネルギーをかき集めて投入できるだけの集中力が枯渇していたのか。

今の自分になって想像ができるのだが、あのとき軽やかに進むことができなかったのは、大大大前提として、とんでもなく傷ついていたせいではないか。それは、コップ一杯ほどの容量ではなく、実に銀河一つほどの大きさで、内側から完全に自分を飲み込んでいたと思う。他人が客観的に気づくにも、自分の住んでいない他所の銀河というのは遠すぎるし、自分で自覚するにも銀河はあまりに大きすぎる(なんて言ったって、私がそのことに気づけたのは、そこから17年が経ったあとである)。何か特定の人や事が原因であれば認識もしやすかったかもしれないが、世の中というのはその生態系ですべてが連なっており、そこから問題をピンポイントで特定することも、輪郭を掴むことも、到底不可能だった。

誰かを丸ごと飲み込んでしまうというのは、相当な暴力が蓄積した結果なのだが、遮るものがなかったり、強風の吹きやすい地形に暮らしていたりといった条件が重なって、日々の太陽フレアやら風やら雨やらを知らず知らずに浴びすぎてしまう人というのが、世の中には一定数存在する。

 

このブログには『読書案内』なんて大仰なタイトルをつけているが、普段は、もっぱらYouTubeを流して過ごすようになって久しい。チャンネル登録をしているお気に入りのYouTuberが何人も(何組も)いて、今自分のなかで「尊敬する人ベスト5」を選んだら、そのうち3人くらいはYouTuberになると思う。

そういう番組のひとつが、『なるチャン』だ。私が見始めたのは、なるチャンが今の素敵な旦那さんととっくに出会ったあとだった。二人のパートナーシップに憧れるという要素もあったし、なにより、ずっと昔に憧れただけで終わってしまった【海外留学】を垣間見ることができる楽しさもあった。海外留学を成した人に対する嫉妬を感じたり、自分の人生に劣等感や残念な気持ちを感じるようなことは一切なく、純粋に【人生は、大変で、可笑しい】ということを疑似体験できるし、「留学って、いやぁこんなに大変なんだなぁ。すごいなぁ」と感心する。

今日の一冊:『私はアメで、明日は晴れで』
なるチャン(著)
KADOKAWA, 2023/5

「○○をしたからすごい」「○○をしたから偉い」というメッセージでひしめく社会の中で息をしていると、それを避けようとするだけでも疲れてしまうし、段々自分の視界まで歪み、狭まっていく。

生きるというのは、そもそも破茶滅茶だ。
痛いし、恥ずかしいし、たくさんやらかす。想定外の事態に出くわすこともある。

破茶滅茶だということは、<たくさん傷つく>ということも意味する。
破茶滅茶やって、傷が5個ついたとしたら、楽しいこと3個、幸せは2個くらい。配分はいろいろあっても、だいたいバランスする。

人生はそうやってちゃんと手配されていて、神様が按配を考えてくれているので、あまり怖がらないでほしい。

自分の左手に5個、右手に5個。そうやって持てる分だけ。

だから、あなたがもし「銀河一個分の悲しみを受け持ちなさい」なんて言われていたとしたら、本当は反則事態だ。あまりにパンパンで、「楽しい」の一個も追加できない。そういうひとは、自分の中で膨張してしまった宇宙にたくさん生まれた星を、ゆっくりでいいから、一つずつ、外へ放出することができたらいいかもしれない。

そうして素敵な庭園規模の自分になれたら、破茶滅茶に、生きてやろうではないか。

(今日はここまで)