人生は、中断したっていい

本が読めない人でも大丈夫な読書案内

ゾウリムシ社会とJ.ラカン

私は、私自身を示す言葉を行使する者とはなれない、私自身は私の価値を、もしくは私がその一部であるところの言語世界を、創造できない。(p.290)
ラカン精神分析

朝と昼の合間。出勤や通学の人の波と出会うこともない、ブランチの時間帯。
駅に向かう途中にあるコンビニに立ち寄る。パンのコーナーに立つが、そこで津波に襲われる。20、30と種類のある商品はすべて同じ圧力で一度に瞬時に脳内へ到達し、視界は処理を諦めた真っ暗な塗りつぶしとなり、溺れた私は息苦しくなって、しゃがみ込む。

私は、どこへ出かけるつもりで家を出たのだろう。

どうしてコンビニに寄ったのだろう。お腹が空いたから?朝から何も食べていないなら、何かお腹に入れておいた方がいいと、そう言われて店に入ったのだ。
私はお腹が空いている?頭に聞いてみても胃に聞いてみても足に聞いてみても、判然としない。「私を食べて」と語りかけてくれる誰かがいてくれたら助かるのに。今朝テレビで紹介されていた新作。雑誌で特集されていたメロンパン。そういった立候補。

今の生活は、テレビも見ないし、雑誌も見ない。テレビや雑誌から求められているのは、朝会社や学校へ向かった人達だ。私は?よくわからない。でも通信制高校に籍はある。だから、一定の目的を持ってこの世に存在していると思うし、思われるはずだ。高校の卒業資格を得る、という目的。

 

一定の目的を持ってこの世に存在していた。始皇帝は?モーツァルトは?そうかもしれない。それは、神が決めることだし、神がそう決めたのだとしたって頷ける。

曽祖母は?曽祖父は?祖母は?祖父は?父は? 一定の目的を持ってこの世に存在していない。ただこの世に生まれたとき、愛される存在であったし、死ぬまでも、死んだ後も、それだけだ。

 

幼稚園児の頃の夢が何だったのかは思い出せない。ケーキ屋さん、お花屋さん、幼稚園の先生。そのどれかだろう。

小学校の頃は算数と理科が得意だった。図書館で借りた本を読む時間が一番幸せだった。足が速いのでやたら目立った。弁護士が何かも知らないのに、英会話教室の「将来何になりたいか?」という会話練習で、決まってlawyerと答えた。親に医者になれとか弁護士になれと言われた記憶はない。ただ母からは、大学にだけは行けと言われていた。それだけは鉄の掟だった。

...私の親は「良い学校を出れば、将来、何をやりたいと思っても、何でもできるのだ」と説得した。つまり、選択の自由が広がる、というわけである。私もなるほどそれはよい考えだ、と納得した。私の両親はとりたてて変わったことを言う人でなかったから、おそらくは、多くの親がそのようなことを一般に言っているのではないか、と推測する。(p.192)

安冨歩『生きるための経済学 <選択の自由>からの脱却』

都会に出て、世の中には意外にも身分を保留にしている人達が沢山いることを知った。人生の列車を乗り換えようと、それなりに検討事項がある人達ばかりじゃない。途中下車してしまって、その辺に生えている草をいじくっているだけの同世代も普通に存在した。そうした未来のぼんやりとした若者達と、一方ちゃんと大学に行っていたり、主婦をしていたり働いていたりする人達と、等しく仲良くしている間は、私の思考は静かに漂い、彷徨っていた。海抜0メートルをぷかぷかと浮かぶ、贅沢で、脆弱なモラトリアム生体。

ところが状況を変えて「何かに在籍している」という身分を持とうとした途端、周囲の世界は恐ろしいものへと変貌した。通信制高校編入の手続きに向かうために、両親と一緒に公共の交通機関に乗る自分は、醜かった。体重が増えてしまったからかもしれない(それでも標準体重だ)。父の目が悲しそうだったからかもしれない。同じ車両に乗っている人達が全員、私がもう10代ではないことを知っているからかもしれない。

他者の語らいは私についての語らいであるにもかかわらず、私に意味を伝えない。意味が伝わってこないまま、それでも他者の語らいは、私について、なされ続ける。(p.132)『ラカン精神分析

スウェーデンの大学生の平均年齢は27歳らしい。今度はスウェーデンに生まれたい。

中米の女性は、腰が高くて艶やかで、カービーなボディが美しい。リアーナみたいに。リズミカルに、踊れる人生に、生まれたい。

 

生まれてきた目的は何だったのだっけ?
大学には行けというのは、世の大人全員が言っていた。大学にさえ行けば、何をしてもいいし、どんなことでもできる。歌を歌ってもいいし、ギターを弾いてもいい。
それは常識であり真実だった。この国を牛耳っているのは人事部で、彼等は綺麗に包装された売り物しか眼中にないし、少しでも形が悪ければ人間とは見做さない。故に将来どうせ大学に行けないと分かっていた生徒は総じてスレまくり、不恰好に希望を殺してしまったせいで、中学校は荒れまくっていた。できる限り上を目指すというのは、そういうことから逃げられることを意味していた。上に行けば、きっと空気は澄んでいる。

この社会には目的がある。人生に豊かな文脈や色合いが許されるのは、その目的に沿った場合に限られる。単調。単細胞。ゾウリムシ。このゲームの波乗りをせいぜい楽しみな。(困った、私にはゲームを楽しむセンスが元々欠けている。)

 

生まれてきた目的は何だったのだっけ?
私は一体いつ目的を持つことになったのだっけ?
目的なんてないよ。だから、自分が一番愉しめると思える世界を見つけたり、手に馴染む技術を見つけたり、一緒に過ごしたいと思える人達を探しに行くんだよ。途中で使命に出くわすこともあるかもしれない。世界に無限にある音色から、何人かお手本を見つけながら、自分で少しずつ調律していくんだよ。

今日の一冊:『ラカンの精神分析』
新宮一成(著)
講談社現代新書、1995年11月

どうして本が読めないのかは、理由がよくわからなかった(本だけじゃない。新聞ですら一行で脱落した)。受験勉強をしたくないだけならいいが、それ以外の本でも、読める道筋を手繰り寄せるのにかなり苦労した。

状況が完全に解決するよりも先に、<読めない私>に何が起こっているかについての解説を得ることになる。ふらふらしていた時分に、精神分析家のラカンのことを知ったのだ。教えれくれたのは、水谷修先生だった。自分のガラケーから先生にメールかメッセージを送ったのだと思うが、よく覚えていない。今であれば、坂口恭平さんに電話していたかもしれない。しかし、このとき水谷先生にラカンを教えてもらったのは奇跡だった。人生には、そうした奇跡が時折起こる。
そうして、この本に辿り着いた。ラカンについての他の本をめくってもよくわからなかった。この本は300頁もあり、おそろしく難解なことがおそろしい切れ味で書かれており、自分に起きていることの全てが解かれていた。

人生とは、ロッククライミングである。次に手をかける場所を見定めなくてはならない。
次の場所に手をかけ損なったと知った途端にとれる方法は二つある。自分は命綱で支えられていると思い込むか、あるいは、そこで時間を止めて硬直するかだ。

私はどうやら、そのまま手を離して、落ちるがままにしたようだった。けれど、無傷だったのだ。それは落ちたところがたまたま柔らかくふかふかだったからで、そうだということを暗に分かっていたのだろう(こうしたケースはおそらく極めて珍しい)。ただ手を離してしまったということは、言葉を失うということを意味する。かくして、世界と私の間にあったフィルターはなくなり、私は常に世界そのものを直に見ている代わりに、世界を知覚することができなくなる。

世界という絵の具に全身が浸かっていて、時間と空間の前後はなくなる。「何を言っているんだ、君ってこういう人じゃないか」と言ってくれる貴方が、私をそこから引き抜いてくれるまで。

(今日はここまで)