人生は、中断したっていい

本が読めない人でも大丈夫な読書案内

"人生の希望"と就職すったもんだ

ちょっと変則的だが、前回までの話の地点から、十年ほど未来にワープしてみてみようと思う。つまり28とか29、そのあたり。

私は紆余曲折を経て、結局は人よりも遅れて大学に入ることになったのだが、大学を卒業するのに7年もかかったので、卒業する頃にはほとんど30という歳になっていた。そのせいで就職・転職の場ではしょっちゅう、困惑した表情の面接官から「そんなに大学にいて、一体何をしてたんですか?」と聞かれることになった。その度に、村上春樹のように「それなりにやることがあったんですよ」とクールに返せたことはなく、ただとんでもない数の面接を経験していく過程で、なんとか顔がひきつらずにやり過ごせるようにはなっていった。

冷静に考えたら、その歳で普通に就職しようと思う方が無謀だった。所属していた文藝サークルには普通の精神を持った人間が皆無だったので、そんな私を止める人もおらず、あまりに何も知らなすぎた私は、とりあえずはOBOGが来て話をするという業界説明会を毎回聞きに行った。当時はマッキンゼーが何なのかも知らないし、そのマなんとかから来ているOGの話を聞いても、どんな仕事をするのかさっぱり要領を得なかった。その後、企業説明会に赴いたり、履歴書を送ってみたり、片手で数える程度の一次面接を受けたりしたが、まったくの徒労に終わった。今思えば、初めからそんな無駄なことをせずに、「どうして資本主義が生まれたのは中国ではなかったのか?」という心踊る好奇心に任せて、思う存分気になる講義に出るべきだったのだ。

どうにかこうにか大学を卒業した日、私は、卒業式の会場にはいなかった。何を思ったのか、その日も就職の説明会に行こうとしていた。どの町のどの駅だったかは何も思い出せないが、現地には辿り着いたのに会場には入らず、引き返してきて、静かなキャンパスを一人ぽつぽつと歩いたのを覚えている。『転職ばっかりうまくなる』を読み始めたとき、あの日の意味不明な自分の様子と重なって、不思議な感覚になった。

今日の一冊:転職ばっかりうまくなる』
ひらい  めぐみ(著)
百万年書房、2023年12月

著者のひらいさんも、この本を作った出版社も、天才だと思った。

まず本が届いて、ホクホクした気分で前に後ろに開いてみたとき、その時点で衝撃的に感動した。帯やカバーで心を射抜かれるなんて、今までにない経験だ。

週末に一人サイゼリヤへ行って読み進めたのだが、隣の女子高生二人組にきっと引かれているだろうなと思うくらい、しょっちゅう声を出して笑ってしまった。

(本から顔を上げて、ふとサイゼリヤの店内を見渡す。席の過半を占めているのはお一人様だが、実にバラエティに富んだ出で立ちだ。ここはパチンコ屋と学習塾しかないベッドタウン街だが、大人というのは、実に色々な表情を持ち、実に様々な人生を送っている。そこにしっかりと社会を感じて、安心して読書に戻る。)

私たちの住んでいる世界、とりわけ、私たちが働いているこの社会は、無茶苦茶だ。でも、あまりにいろんな人がいて、いろんな会社があって、一周まわって可笑しいし、愛おしくもある。

私は大学にいる間、社会に出てもそのまま延長できたり、アピールができるような活動は何一つしていなかった。そんな余裕がまったくなかったのだ。文字が読めなくなる、という現象の裏で、私の場合、一度言葉を完全に失っていた。言葉=私を取り戻していく作業は、途方に暮れるほど長い道のりだった。辛うじて、在学時に幾つかのバイトを転々とした後、学習塾のバイトに落ち着いて卒業後も続けていたけれど、そのままずっとアルバイトをして都会に住み続け、尚且つ奨学金を返済するのは、ほぼ不可能だった。

大学卒業後、頼みの綱だった既卒生専門の就職エージェントには、電話口で一言「大学名はいいけど、あなたの人生が駄目ですね」と言われ、それっきりだった。ハロワの求人を辿ってなぜか名古屋まで行ったり、パワポもエクセルも使えないのに派遣に登録したり。箸にも棒にもかからない状況だったので、勢い余って東南アジアまで行き、安宿に泊まりながら就活をして、漸く初めての内定をもらった。そこで少し働く間に、海外にいる日本人のおじさん達に何度も助けてもらう、という貴重な体験を沢山したが(日本にいると誰かに助けてもらうなんて場面には、滅多に遭遇しない)、全く仕事ができるようにはならず、結局日本に帰って来た後も、様々な職場を経験することになった。海外の現地採用に始まって、図書館バイト、工場や倉庫でのバイト(冷凍食品の倉庫でギブアップしたため全部で10回未満)、思えばお互いに喧嘩腰だったWeb系の会社、たまたまいい人達に恵まれた派遣、楽しいけどカオスなITベンチャー、社長と秘書も含めて10人もいない会社、おじさん3人で回してる小さな会社、変わった人間を許容するキャパのある体育会系の大きな人材会社。日本の会社、海外の会社(海外のMBA卒がごろごろいるような場所)。

よく途中で挫けずやってきたな、と我ながら思う(否、途中で何度か、完全に挫けている)。奨学金返済という逆人参があったので、「それを払い切るまでは」と思って踏ん張ったところはある。でもそれ以外にあったのは、一番は【恐怖心】だった。

すごくソーシャルで意識の高い企業の面接の場で、「それで、その周回遅れは回収できたんですか?」と聞かれたことがある。その面接官が伝えたかったのは、私のような人間が、普通の年齢で社会に出た人とのギャップを埋めるのは不可能、ということだ。自分でも、埋められると思って頑張ろうとしたわけではなかった。ただ、心底恐ろしかった。きちんとした会社に入って、きちんとした経歴を一度通過しない限り【人間】として認められない。右を見ても左を見ても、そうしたメッセージが充満していた。

言ってみれば、私は大学を出た時点で、海抜0メートルのところに立っていた。普通、23年生きれば23年分、30年生きれば30年分の標高の丘が出来上がっているものだ。私の場合、18歳からの3、4年の間にできた3,000メートルの谷底を、その後倍の時間をかけて埋めなくてはいけなかった。いい歳をして更地に立っている人間は、火の通っていない、生の生地のままの存在であるように感じられた。それが、「社会」を前にした時に、強烈に伝えられたメッセージだった。

<人生の希望>が消える瞬間というのは、この恐怖を感じる瞬間、自分は死ぬまで半生クッキーだと思わされる瞬間だった。そう思わせる正体は、なんだったのだろう。周りが山を登っている間、私は海に潜っていた。そこにはもしかしたら、別の希望もあったかもしれない。別の力で、別の言葉で語ろうという勇気は、あの頃、三匹の子豚の家のごとく、粉々に吹き飛んでしまった。

(今日はここまで)