人生は、中断したっていい

本が読めない人でも大丈夫な読書案内

女の子の不器用な跳躍

あなたが愛を投げる。私は愛が投げ込まれたことを知らない。

赤ん坊は羊水の海に浮かんでいて、一匙の愛が増えたところで気づかないだろう。

どうやらあなたは自分が傷ついたという記憶に襲われてしまっていて、視界は靄に囲われており、そのドームの中で自分の声がこだましているせいで、こちらが手を振っている姿がうまく届かないようだ。

あなたが何かに傷つけられていることは、言葉よりもずっと手前で、臍の緒を通して伝わっているけれど、その正体が何なのかは巨大すぎてよくわからない。

私にはあなたが傷ついているのが見えるけれど、あなたには私の傷が見えない。

立ち位置のせいなのかもしれない。あなたの傷は脛にあって、私の傷は背中にある。

 

記憶違いかもしれないが、たしか、高校三年の期初の一斉テストは学年一位だった。にもかかわらず、その後まもなくして行われた別のテストでは、答案用紙を白紙で出していた。教師たちは困惑したし、「反抗しているのか?」くらいのことを思っていたと思う。

自分でもよくわからなかった。ただただ、私の世界は一夜にして真っ白に漂白されてしまっていて、そのときにはもう、問題文の一文字だって追えなかったのだ。

よくわからないまま、ぼんやり自転車を漕いでいたら、信号のない田んぼ道をすっとばしていた軽トラに跳ねられた。我に返ったのは病院のベッドの上で、ショックで一時期記憶がなかったようだが、体はほとんど無傷だった。多少むちうちがあったかないかの状態で、翌日には「家に帰ってください」と言われ退院した。

無傷だった理由は、吹き飛ばされた私の体が、ふかふかに田起こしされた土の上に落ちたからだった。落ちてしまっても大丈夫なように、両親がふかふかにしておいてくれたのだ。それは、生まれたときからそうだった。でもそのことに、本人たちも全く気づいていなかったし、そうとは知らなかった。

 

世間はお節介なので、やたらアドバイスをしてくるだろう。
愛が足りない。愛の形がおかしい(星型ではなく、ちゃんとハート型にしないといけない、云々)。あなたは何かを愛するには未成熟だ、云々。

 

愛はおそらく、もう充分だった。
必要なのは、自分の城を建て、その主人として自分の手で旗を立てることだった。もうお子様ではない。アイドルとしてデビューしたって、ほとんど顰蹙を買わない年齢だ。

自分の力で海を多少埋め立てて、頑丈な地盤を作り、その上に城を建てる。「埋め立てたと思ったら、実は海に浮かぶ島だった」ということでもいいのだ。とにかく自分の家が必要だ。
だけど、そんなことはできなかった。
<私は私の城の主人だ>と、声高に言うことはできないのだ。だって女の子だから。

そんな姿勢・態勢で生きてしまったら、男の子から好きになってもらえない。

かといって、自分がちゃんと女の子になれていたかというと、心許なかった。女子のグループの中にいても、「〇〇ちゃん、今日のスカートかわいいね」「〇〇ちゃん、その髪型かわいいね」という毎朝の儀式のような会話は、心の中では反吐が出るほど嫌いだった。

ダイアン・キートンやダイアナ妃も、もしかしたら同じだったのかもしれない。中性的でユニークで俯瞰している水瓶座な少女時代から、大人の女性へとジャンプするのは、難しい跳躍だ。いっそのこと、St.Vincentみたいにぶっ飛んで格好良くなってしまえたらいいのに。

今日の一冊:19時から作るごはん』
行正 り香 ()
講談社、2004年6月

レシピ本というのは難しい。洒落れた大型本屋で「すごく売れてる」と謳われている本を買っても、出来上がった料理をいくつか食べてみて、「どうやらこの料理家の味と自分の口は好みが違うのだ」と気づくこともある。レイチェル・クーのレシピ本は、実際に意気込んで作ってみるのは年に一回くらいだけれど、キッチンの目に見えるところにあるだけで何だか幸せだし、ページをめくっても何だかハッピーになる。

母は特段料理を私に教えることはなく(自分も本を読んで身につけたと言う)、母の料理本やレシピの切り抜きがブッキングされたファイルを手に取ることはなかったのだが、なぜかパンやお菓子作りのレシピ本はよく拝借して眺めていて、特に城戸崎愛さんの『ラブおばさんのお菓子作り』(鎌倉書房)は読んでいるだけで脳内と口の中に妄想が広がった。小さい頃、母の横で粉をふったり、クリームを泡立てたり、母の目を盗んで生の甘い生地を舐めたりして、体に馴染みがあったせいかもしれない。

エミネムとDavid Bowieを聴いて彷徨っていた頃、まったく自然な欲求として、自然なエネルギーの流れの帰結として、料理をすることに興味を抱くようになった。まずは、実家にあった超超入門の本を熟読した(カラー写真と一緒に、米の洗い方や野菜の切り方、火加減の話といった基本が書いてある、薄くて大きめの本だった)。

その次のステップとして、私は料理のレシピ本を探しに本屋へ向かった。当時、新刊や古本で3、4冊のレシピ本を買ってみたのだが、手が込みすぎるものは中々実際に作るまでに至らなかったし、ちゃんとした専門家がコンパクトに捻りを効かせたレシピ本は自分の生活のトーンに合わず、定着しなかった。それでも大事なのは、幾つかの料理は実際に作ってみたということで、本の中からレシピを一つ選んだら、食材や調味料を揃えるところから脳みそはフル稼働する。

当時、実際に作ってみた料理が多く、一番定着したレシピ本はこの本だった。適度に気楽で、初心者の自分でも適度にやりがいがあって、捻りすぎておらず、でもお洒落な佇まいの工程と完成図が、好奇心を掻き立ててくれたのだと思う。

自分に愛を与える。そこには具体的な工程があり、具体的な温度と味がある。そこで初めて、君は愛について知識と実感を得るだろう。手触りを持って確かめることができるのは、自分が練って炒めて食べた愛だけだ。他人の愛は見分けがつかない。海辺に立って眺めたとしたって、海の向こう側は知りようがないのだから。

その形を触って確かめることができるようになったら、傷の在処まで辿り着くまで、もう一歩だ。丁寧に、優しく自分の体を点検していくこと。そうすれば、背中の傷の端っこに指が届くかもしれない。

(今日はここまで)