人生は、中断したっていい

本が読めない人でも大丈夫な読書案内

生きることの<不安>と、生きるための具体性


教室にいられなくなって校舎を飛びたしたのは、高校三年の春学期が始まって間も無くのことだったが、実はそれに遡ること数ヶ月前から、水面下で異変は起こっていた。

高校時代の私は一応部活に所属していたのだが、吹奏楽部の副部長に生徒会の議長にという忙しい中学時代とは打って変わって、部自体が<幽霊部>のようなゆるゆるの文系の部活を選んだ。たまにイベント的なものがある以外は日常的な活動はなかったので、基本的には授業が終わると、たまに本屋に寄り道して、あとはただ家に帰るだけの日々を送ることになった。

家に帰って何をしていたかというと、残っている時間のすべてを勉強に充てようとしていた。実際には、テスト前でもなければそんなに毎日何時間も机にかじりついていた訳ではなく、ファッション雑誌のMOREとZ会の冊子をめくって漫然と過ごしていたのが実際だったけれど、「勉強しないと」という意識だけは常に脳内に充満していた。

 

きっかけと体の異変

もう一つ、高校に入った直後から常に自分にかけていたプレッシャーがあった。「痩せたい」というマインドセットだった。何かで専門家が「痩せることに執着する女子学生は往々にして、それ以外に自己肯定感を持てるものがない」と言っているのを読んだことがあるが、当時の私は、ちゃんと計画的にテスト勉強をすれば、期末テストで学年総合一位をとるのはそんなに難しくないような人間だった。痩せる必要があったのは、ちょっと違う理由だった。痩せれば、少しは周囲(特に男子)にか弱く映ると思い込んでいたのだ。でもそんな滑稽な戦略は水の泡で、教室の男子からも女子からも大人達からも、<強くて賢くて何の問題もない人>と思われたままだった。世の中は不思議なもので、実際に何の問題もなさそうな女子や男子には寄りかかる相手が存在するのに、「助けてほしい」「話を聞いてほしい」という切実な要求が胸の内にある子達は一人のままで、私もそのうちの一人だった。

部活でしごかれることは拒否した私だったが、定期的に、家で勉強をする合間に電灯もない真っ暗な田んぼ道を走っていた。テストが近くなって集中度が増すほど、より走りたくなり、一方で強迫的なカロリーコントロールを常にしていた。頭も体も健全なエネルギーを大量に欲しているのに、全く愚かな状況を自分で作り出していた。

あるとき、何気なく、コンビニの菓子パンに手が伸びた。高校2年の終わりか、その後の春休みの間のことだったと記憶している。菓子パン一つだったのは最初だけで、気づけば三つ四つに加えて食パン、と爆発的に量が増えていった。麻薬が脳内をハックするのは一瞬だ。白砂糖と油と添加物の塊が、満たされずにスカスカな状態だった体と心と脳みそを駆け巡って行ってしまった。そのいわば脳がラリった状態から、詰め込んで吐くことを覚えるようになるまで、そしてそれが毎日のことになるまでに、どれくらいの時間的スパンがあったのかは厳密には覚えていない。ただ、そうして始まった摂食障害は、その後十年間続いた。

 

燃料としての<不安>

思い返せば、子どものころから、私には安心というものがずっとなかった。
自分が生き残るためには、もっとがんばらないといけないといつも思っていた。(p.19)

完璧な家庭などなく、ずっと平穏な家庭ばかりでもない。私の家もゴタゴタした時期があった。問題だったのは、そこで自分が感じているストレスや辛さをうまく自覚することができておらず、かつ誰にも相談ができなかったことだ。自分の不安の要素があまりに水面下に潜っていて、何か「悩み」として言語化できるほどには、立体感を持っていなかった。それに仮に言語化できたとしても、そこら辺の人に相談できる話でもなかっただろう。

(私の月星座は水瓶座で、12ハウスにある。常に冷静で、物事を俯瞰的に捉えてしまい、かつ素の部分の自分が奥に秘められてしまって、見えにくい。一方水星と金星は獅子座なので、言葉尻は常に自信がありそうで、堂々としており、そういう態度を自分でも好んでいた。星の読み方を知るというのは、自分の説明書・取扱書を手に入れるようなものだ。)

私が自分の中に<安心>という地面を実感できるようになったのは30代に入ったあとで、安心が「ある」とわかったときに初めて、それまではそれが「なかった」ということをはっきり認識した。この不安こそが摂食障害の燃料で、それはちっとも枯渇しなかった。元々十年は足りる油田があって、菓子パンに手が伸びたときというのは、ガスが充満しているところでマッチを擦ってしまったようなものだった。

20代後半に症状が治った後も、強い不安やしんどさに襲われたときにあの衝動に駆られることもあったが、その頃は自分の「悲しい」「つらい」の輪郭がはっきり掴めるようになっていたので、コントロールが可能になっていた。安心が獲得できて初めて、ハンドルの操縦が自分の手の内に収まるようになる。それは、医者の出す薬で脳内物質が調整されれば手に入るものではないし、運動をして心身整えば解決するという訳でもない。

不安になると、また、たくさん食べて吐いた。
過食嘔吐だけが、まるで悪友のように、いつも私のそばにいて「吐いたら楽になるよ」と教えた。でも、吐いても、吐いても、問題はなくならなかった。(p.25)

 

「この世の終わり」という錯覚と、生きる上での具体性の欠如

高校三年の夏に一山あったと以前書いた。たしか高校二年の間に自分で申し込んでいた大手予備校の「夏の合宿」に参加したのだ。

高校の授業には出られないし、勉強も一切できないし、信頼できる唯一の大人がいた保健室に立ち寄る以外は学校に行くこともまばらになっていたのに、その夏の合宿には赴いたのだった。自分のなかで、もしかしたら心の中で繋ぎ止める何かに出会えるかもしれない、という最後の期待があったのだと思う。

合宿先には東大や一橋のお兄さんお姉さんがおり、一橋のお姉さんは「本当は東大に行きたかった」というのを至極辛そうに(未だに)言っていて、集まってきている高校生は東大か京大か医学部を目指すことを検討していた。

合宿は5日間くらいだったか、もっと短かったのか長かったのか。寝食を共にする同部屋には、自分以外に4、5人いたと思う。皆いい子だったし、たしか大阪から来ていた二人組はパンチがあって表現豊かだったし、彼女達は一人浮かない顔をしている私にちゃんと気づいて心配してくれたりもした。自分の高校の同窓生より、よっぽど人間的だった。

でも結局は、その合宿での時間が私をよき塩梅で応援するように働くことはなく、「高校三年の何月から受験勉強を始めて、一日何時間勉強して、どうにかなりました」といった大学生の体験談でヒントになりそうなものは何もなく、私は秋学期が始まる時点で、完全に電池が切れてしまった。文字通り、全く動けなくなったのである。見かねた高校からは「保健室登校でいいから頑張って登校すれば卒業はさせてあげられる」と言われていたが、学校に向かう気力は1ミリも残っておらず、家にいる時間が俄然多くなった。

がんばる気力が残っていないというより、「学校へ行くことにまつわる信頼」が自分の中で完全に枯渇していたような気がする。私の通っていた田舎の進学校は、大学受験をしてできるだけ偏差値のいい大学に行かない限り存在理由の与えられない空間だったから、ただ卒業だけを目指して保健室に通う自分を支えてくれる酸素ボンベは、そもそも用意されていなかった。

「夢は大きく」とか「可能性は無限大」と大人は子どもに言う。でも私にとっては、夢よりも、目の前の現実をしっかり見ることのほうが、生きるのに役立った。(p.120)

あのとき、自分は、周りは、どうすればよかったのか。どうしてあんなに徒手空拳な状況に陥り、いろんなものが団子になって拗れていったのか。大人なった自分が当時の状況を振り返ると、別に全く<世界の終わり>でもないし、いくらでも方法はあったように思える。実際、方向が定まれば走り出すための<がんばるエネルギー>の小ぶりのタンクを、手元に二つくらいは死守できていた。その活用方法を、自分も、周りの人間も、誰も何も知らなかった。

今日の一冊:転んで起きて 毒親 夫婦 お金 仕事 夢 の答え
西村ゆか(著)
徳間書店、2024年2月

ReHacQを観ていて、衝撃的な内容が流れてきて驚いた。ゆかさんはそれを12年抱えていたという。早速次の日に最寄りの本屋さんへ行った(結局そこには置いていなかったので、別の日に他の所で本を購入した)。

時折出てくるゆかさん節に笑いながら、でも同時に何度も泣きそうながら一気に読んだ。

ゆかさんの周囲の壮絶さに比べたら自分は全然平穏な環境にいたと思うが、あのモンスターの裏に隠れている正体がどういうものかについては、同じようなものが私にもあった。ただ、生きていくことの手立ての具体性については、圧倒的な違いがった。

生きていくために、具体的にどうやって世の中にアクセスし、自分の仕事を見つけて、自分にとっての自分を立て直していくのか。それは、正に必要とされたものだし、田舎で学校に通っていただけの自分には決定的に欠落していて、当時そのことに絶望したのを覚えている。

あの頃、完全にストップしてしまった私には、具体的に興味関心が持てて(心が動いて)、それが生きていくことと繋がっていくための具体的な方策や道筋みたいなものが、ぼんやりでもいいから必要だったのだと思う。生きるというのは、現実的で具体的なことだからだ。

「これぐらい勉強して、これぐらい良い大学に行って、これくらい良い会社に入る」ことをなんとなく提示されたとしても、自分の足元が不安でぬかるんでいる人間が踏ん張るにはあまりに漠としていて、私の場合、その漠然さがあの<不安の暴走>に拍車をかけ続けていた。最も「そうこうすると生涯年収がいくらになります」と言われて心が動く人間だったら、それは<具体性>になったのかもしれないけれど。

著者のゆかさんは、旦那さんと出会ったことについてこう書いている。

"... この出会いは私に、目の前の現実を変えていく力をくれた。
ボタンの掛け違いをひとつひとつ直していく、そんな勇気をもらったのだと思う。"

この本は、大人になっても自分を追い込む癖がどこかでしつこく残っている私に、残っているボタンの掛け違いを外すための、たくさんのヒントと気づきをくれた。

どこに<意識>を向けるか

私の場合、膨張する不安以外に、もうひとつ厄介な要素も混じっていた。今思うと、あの合宿の帰りのバスの中で自分を捉えていたのは、抵抗感だった。耳を澄ませないと聞き逃してしまいそうなボリュームではあったけれど、でも確実に、その空気感や世界観に対する「なんか違う」感が声をあげていた。下手すると嫌悪感にまで成長しそうな、耳の奥がじゃりじゃり言うような違和感。実はそういう心の声が、「では、自分はどこに向かうか」と考えるときの種子になる。自分の「心地よい」「気持ち悪い」の感触には色も温度もあるからだ。そのセンサーを頼りにして、関心の持てそうな世界観や対象を手繰り寄せていくことができれば、あとは道順を誰かに教えてもらうしかない。

結局は、私はそのセンサーに基づいて進んでいくことでしか、状況が変わることもなかったし、文字が読めるようにもならなかった。その工程にとんでもない時間がかかってしまったことについては、改めて書いていこうと思う。

(今日はここまで)