人生は、中断したっていい

本が読めない人でも大丈夫な読書案内

<私>と<働く>と<世界>の間にあるもの

進路を選択する際に「自分が何を学びたいか」を考えるのが大事だ、というのは教育業界にいるYouTuberが口を揃えて言っていることだが、「学び」が必要になるのは何も大学進学に限られたことではない。生きているかぎり、私達は何かしら学び続けていくことになるからである。

バイト先で仕事を覚えるにも、タロットカードに惹かれてその世界に足を踏み入れるにも、初めはまっさらなところへ恐る恐るタックルして、徐々にわかること・できることを増やしながら、その世界と馴染んでいく。

一方、その先の「働く」を戦略的に考えるための、その一貫としての進路選択という側面もあった。そこで、<働く>と<学ぶ>のそもそもを、ざっっっくりだが要素分解してみる。

A. 働く

B. 学ぶ

  • B-1. 技術を身につける
  • B-2. 暗記する
  • B-3. ゲームとしてこなす
  • B-4. 興味なんて全然ないけど、やらないといけない事情で渋々勉強して習得する
  • B-5. 自分の好奇心の駆動で、ある分野・世界について開拓する
  • B-6. 生きるか死ぬかのもがきの過程の中で新しい知識と出会い、修得する

→ パターン①:B-2, B-3, またはB-4, (B-6?) … 受験勉強、学校の試験対策
→ パターン②:【B-1】× B-2, B-4, またはB-5, (ときにB-6) … 「働く」に繋がる勉強
→ パターン③:B-5

パターン①について。高校生の段階で「B-5.開拓」の次元に到達しているような人もいると思うが、それはかなり限られたケースだろうと思うで、ここでは敢えて入れないことにする。「B-6.生きるか死ぬか」について。受験勉強を通過した人は、多かれ少なかれ、その時は<生きるか死ぬか>の時間を経験したのだろうと思う。ただ受験を通過するのも、そこで失敗を経験するのも、それが頓挫するのも、すべては表裏一体で、この国ではそれがなぜか<生きるか死ぬか>のイベントになっているがために、台風並みの瞬間風速がひとりひとりの心臓を突き抜けることになる。要はそれは社会に仕組まれている<生きるか死ぬか>であって、合格して晴れて大学生活がスタートした時点で、受験勉強でやった内容が「さよなら〜」と後腐れなく頭から抜けていっても困らない。その上で、受験にまつわる諸々が青天に強風程度のしんどさだったのか、毎日トルネードが襲来する中を潜り抜けないといけないくらいの大変さだったのかは、個人差が大きいだろう。なので一旦留保にしておく。

高校までの私が持ち駒として持っていたのは「B-2. 暗記をする」と「B-4.渋々勉強する」で、「B-3.ゲームとしてこなす」というセンスと感性がおそろしく欠落していた。

勿論、どんな勉強でも一つ一つ理解する範囲を広げていくという作業があって、むしろその工程はとても好きだった。でも、一段奥に潜ったところにある心理としては、日々向き合っていた参考書の周囲に漂う世界は、実は好きでも嫌いでもなくどうでもいい対象だったのだろうと思う。

さて、兎の穴に落ちた日以降、この「B-2.暗記」も「B-4.渋々」も私の脳からは完全に消え去るか無効になってしまった。家電製品が壊れた状態ではなく、電気自体が通っていない状況だ。

「求人の数」「初任給/生涯年収」「日本にはキャリアパスの多様性がない」といったことを考えれば勿論大学に行くことは合理的で、ひろゆきの言う通り、【楽をして稼ごう】と思ったら凡人が持つべき最低限必要な戦略であることは紛れもない事実だが、凡人の自分が「受験勉強ができない」となった時点で詰んだ状態に突入した。

そうすると残っているうち使えそうなのは「B-5.好奇心駆動」だけだった。

"呪縛にかけられて自我を失った子どもは、もし受験勉強をしないとして、自分がいったい何をやりたいのかが、まったくわからない。"  (p.191)

大学に行かないのであれば、自分は何がしたいだろうか。駆け込み先の市立図書館の一人用ソファに座って連日考えたが、はっきりとはわからなかった。くっきりとしたアイデアは出てこないが、美しいものや<人>へのキラキラした感覚は息を吹き返してむしろ冴えわたっていて、服飾や美術芸術や演劇の世界にやんわり憧れを抱いたりもした。でもそれが決定的に自分を突き動かすまでのマグマにならなかったのは、自分の中で「既に遅い」と解っていたからだと思う。

そして働くことを考えると「B-1. 技術」は必ず必要なのだが、理系で大学に行くことは選択肢から消えた以上、別の世界を探す必要があった。舵を切って新たに進むことができる世界を見つけて、自分をそこに向けて振り切りたいと、心では叫んでいた。

“実際、受験勉強などで人生を無駄にしていたのでは、肩書きなしで勝負せねばならない世界を生きるのは難しくなっている。”  (p.192)

 

<A.働く>と< B.学ぶ>を繋ぐルート探しが暗礁に乗り上げたので、小休止を挟みたい。今ここにいる自分を起点として、そこから外に広がっている世界に向かって歩を進める中で浮かんでくる要素を、ぱらぱらと並べてみる。

  • 言葉
  • 家族
  • お金
  • 社会
  • 市場
  • 企業
  • 産業

働き始めようと、既に働いていようと、私がそうだったように保留状態だろうと、進学を控えていようと、18歳になったときにこれらのテーマについてどれだけのことを知っているだろうか。知らないとしたって、生きる上では何の支障もないのだ。暗記するか、ゲームとしてこなすかして、とりあえず【A-3. 会社に勤める】の切符を得るまで走り抜けさえすれば。

「社会」や「国」ついては、一応中学や高校でも公民の授業で習うのかもしれない。歴史科目は、国、社会、産業などあらゆるものを含んでいるので、歴史が得意な人の中には詳しく知っている人もいるのかもしれない。それでも、教科書の<そういうことになっている>という説明を丸ごと飲み込んだあと、それをちゃんと消化して現実世界と繋げるのは、とても難易度が高い。

何も教科書に縛られる必要はないのだ。例えば簿記を知っている人なら、<働く>という側面とは別のパラレルワールド、そこから繋がる別のテーマへと足を伸ばすことができる。「お金(貨幣)」「社会」「市場」「国」「産業」にアクセスできるし、「貨幣」から更に「言葉」に続く道なりもある。繋がる先は法人や事業の活動だけではない。

一番身近なものはもっと解らない。「私」を分解したとき、まず<心>が浮かぶ人もいれば、他のものが浮かぶ人もいるだろう。心が浮かんだとして、心とは何なのか。心を作っている材料は何なのか(言葉なのか、家族なのか、社会なのか、国なのか)。そもそも実体があるのか。

働くことだけを考えれば、大きなことや抽象的なことを考える必要はないのかもしれないけれど、逆に人生において立ち止まることになったとき、うまく進めなくなったとき、そこにはなにかヒントが隠れているかもしれない。純粋に知ろうと思うことは誰にでも開かれているのだ。空も山も平原も海もただそこにあって、触れようとするのに、特に許可も資格も必要ない。遠すぎたり大きすぎたりして、素手で掴もうとしたって簡単に太刀打ちできる訳ではないかもしれないけれど、既に、いつでも、私達は空にも社会にも繋がっている。

今日の一冊:『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』 
安冨  歩(著)
NHK出版、2008年3月

初っ端から紹介するには、この本は難しさの歯応えレベルが高すぎると思う。難しい本というのは、そうである。初めて頁をめくったときは、何にもわからず降参する。でもどこかで心の隅に引っかかっていて、切り崩せそうな、もう少し手の届きそうなところで他の本をちょこまか読んでみる、というサイクルを繰り返していると、ある時ふと読めたり!わかったり!する日が訪れる。何ヶ月も、何年もかかるかもしれない。気を長く。

頭のどこかでボワッと置いておく大きな地図として、どんな地図を選ぶのかによって、その後迷い込むことになる森の様子も変わってくる、かもしれない。

「市場」と言うとき、現代のポピュラーな日常生活には「シジョウ」しか登場しないので、「イチバ」との違いなんて儲かる話でもないし、何それ美味しいの?な話かもしれない。でも、経済学の"多くの仮定が、物理学の諸原理に反している"(p.23)と言われたら、「えっっ?!」となってちょっと足が止まるのではなかろうか。私たちは息をするだけで、市場とやらに持ち上げられたり振り回されたりしない日はないのだから。

(今日はここまで)